カッ。
静寂の中、金属がかたい物にぶつかったような音がする。 放った矢は的の右隅に当たった。
さっきよりもたいぶん的に近づいてきた。今度はもう少し狙いを左にするべきか。
右手でつまんだ矢を左手に握った弓につがえる。ふり向くように顔を的の方に向け、握り拳を作った両手を弓とつがえた矢ごと上にあげる。左手をさらに的の方向にずらし『引き分け』の姿勢にうつった後、今度こそ完全に的に向けて構えを完成させる。
一、二、三、四、五。
心の中で数えた後、勢いよく両手を左右に開く。
ターン。
さっきとは違う音が道場に響く。今度は当たったのか。
頭と視線を的に向けたまま弓と両腕を腰の位置まで動かす。開いていた足を元にもどしすり足で謝位(弓を射る場所)から遠ざかろうとしたその時。
「お見事」
控えめな拍手と中性的な声。振り返るとそこには長身の女生徒がいた。
「きれいに当たるものだね。練習のたまものかな」
訂正。そこには女生徒の格好をした男子生徒がいた。
グレーがかったストレートの黒髪を今日は一つに結わえている。一見、セーラー服を思わせるような長袖の上着に桜色をした膝丈のスカート。一般的な私立桜高等学校の女子生徒の制服だ。それを違和感なく着こなせてしまうのはこの人の生まれ持っての性質か。
そういえばこの人の普通の生徒らしい格好を一度も見たことがない。俺と同じ制服を着ていたら他の生徒達の目には一体どのように映るのだろう。
と、そこまで考えたところで頭をふる。そんなことはどうでもいい。問題はなぜこの人がこんなところにいるかということだ。
「今日はどうしたんですか」
「真南(まなん)に言われた。『これから生徒会室の掃除をするから、あなたは生徒会長らしい仕事をしてこい』ってね」
ほとんど面識のない生徒会書記に同情した。会長がこれなら生徒会もさぞかし気苦労がたえないだろう。
「それで覗き見ですか」
「失礼だな。偵察と言ってくれたまえ」
目の前の男子生徒の名前は鳴海道治(なるみみちはる)。れっきとした、ここ私立桜高等学校の生徒会長だ。
「生徒がちゃんと部活動を行っているか。それを把握するのもれっきとした私の役割だからね」
毅然として告げる様だけを見れば立派だが先に理由を聞いているので今ひとつ説得力にかける。とどのつまりは掃除の邪魔だからと他の生徒会役員に追い払われただけなのだから。
「知らなかった。君って弓道部だったんだね」
「俺が弓ひいてたらおかしいですか?」
「そんなことはないよ。ただ佐藤兄弟が部活動をしていること自体が意外な気がしてね」 そう言って生徒会会長は肩をすくめる。ちなみにもう一人の佐藤兄弟とやらは帰宅部だ。「それで。俺はどうすればいいんですか」
「活動風景を写真にでも撮ろうかと思ってたんだけど。誰も人がいないんじゃね」
弓道場には俺と会長以外に誰もいない。それはそうだ。今日は試験の二日目。試験は明日まで続く。加えて今は午後二時。大抵の生徒は下校しているだろう。にもかかわらずここにいるということは会長はよほど試験に自信があるということか。
聞いてみようかと思ったが逆に返されそうなのでやめた。ちなみに俺がここにいる理由はというと。
「今度は何をするんだい?」
「矢取りです」
右手にはめていた『かけ(弓道用の手袋)』をはずし、いったん道場から離れる。タオルを手に取り靴をはき安土(あづち)のほうに向かう。矢は全部使い切ってしまったからとってこないと練習ができない。
砂場に差し込まれた的(まと)に左手をそえ、右手で刺さった矢を抜く。四本射って当たったのは二本。はじめに射った矢は的からわずかに右にはずれていた。これじゃあまだまだだ。
タオルで矢についた砂を拭き取ると道場にもどる。再び矢を射ろうと場内に入ると。
「道着はいつも着ているのかい?」
「着るのは試合の前日か本番くらいですよ」
生徒会長はまだいた。正直、練習の邪魔になるのでそうそうに退散してもらいたいのだが控え席で正座までしているところを見ると残る気満々のようだ。
「常用しているところもあるんでしょうけど。毎日着てれば汚れるし」
適当に会話を受け流しつつ弓を射る位置まで移動する。
再び弓を手に取り右手で矢をつがえる。的に視線を向け弓ごと両腕を上にあげて。
「アーチェリーとは微妙に異なるんだね」
「ひいたことあるんですか」
「中学の頃に少しね」
それは初耳だ。和弓はこうしてひいているが洋弓のことは全く知らない。ひき終わったら違いを教えてもらおう。
――と、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
左手をずらし、右手を軽く矢の羽に添えて。
「佐藤君」
会長の声は無視して心の中で数字を数える。あと三日なんだ。もっとしっかりしなければ当たるものも当たらない。
右手を離そうとしたその時。
「緊張してるのかい」
シュッ。
矢は見事にはずれた。
「生徒会長」
「ん? なんだい」
「暇なんですか」
今までは的に当たるかはずれても近くだったのに。今度のは射ろうとした場所とはかけ離れたところに突き刺さっている。
険をはらんだ視線を向けると会長は意に介した様子もなくこう指摘した。
「肩に力が入りすぎてる。何か余計なことでも考えていたんじゃないかとね」
「……なんでそんなことわかるんですか」
「道着」
一見すると可憐な少女のものとも思えるような細い指先が俺の方に向けられる。
「着るのは試合の前か当日と言ったのは君じゃないか。
今日は試験で午後からは全部活が休みなのにもかかわらず君一人が道場で弓をひいている。何かあったのかと思うのが筋だろう? おおかた大きな試合前といったところかな」
図星だった。今の俺は道着を着て道場で一人弓を射っている。普段ならまっすぐ家に帰り試験勉強をするべきなんだろう。でも今の俺にはそんな気にはなれなかった。
なぜなら。
「負けたら悔しいじゃないですか」
弓を壁にたてかけ声をあげる。
試合は的により多くの矢を当てた方が勝ち。いたって単純なルールだ。けれどもちょっとしたことで集中がきれ、簡単にはずれてしまう。ちょうど今のように。試合まであとわずか三日。これでは相手の足をひっぱるだけだ。
「団体戦なんです。俺一人ミスるわけにはいかない」
一人でやる個人戦ならともかく団体戦は三人で一チーム。はずしたくはないし参加するには勝ちたいじゃないか。なのに気持ちとは裏腹に矢はなかなか当たってくれない。
「頑張ってきたんだ。やるからには勝ちたい!」
いらだちと焦りとで声を荒げてしまう。
声に驚いたのか目をしばたたかせる。でもそれはほんの少しの間のこと。会長はそっと嘆息して苦笑を唇にのせた。
「さっきも言ったけど。肩に力が入りすぎてる。弓道についてはよくわからないけど、スポーツとは本来楽しんでやるものじゃないのかい?」
また図星だった。試合は嫌いじゃないはずなのに、気持ちばかりが空まわって、練習すればするほど当たらなくなって。最近はあまり楽しめてなかった気がする。
それを、この短時間で見抜いたのか。鳴海道治。生徒会長という肩書きは伊達ではないのかもしれない。
「……すみませんでした。あたってしまって」
頭を下げると会長は微笑を浮かべた。
「これくらいたいしたことないよ。むしろ貴重な一面が見れてよかった。クールなように見えて、実は熱いんだね。君って」
ほめられているのかけなされてるのか今ひとつわからない。一体どういう意味なんだろう。
わからないと言えば。
「一つだけ質問してもいいですか」
「私に答えられることなら」
会長の声に今度は俺が指を向けた。
「どうしてそんな格好してるんですか」
格好とは言うまでもなく女子の制服のことだ。生徒会役員の選挙の演説で颯爽と現れた長身の少女。その凜としたたたずまいに誰もが息をのみ、結果、圧倒的な支持で少女は会長の座を射止めた。
生徒から圧倒的な指示をもって生まれた生徒会会長にとんでもない事実が発覚したのは選挙が終わって五日たってからのこと。学校内は一時騒然としたらしい。もっとも俺はそのとき風邪で休んでいたのでことの真相を知らないのだが。
女装する生徒会長。普通なら誰かがクレームをつけるはずなのに、なぜか誰も止めない。むしろ嬉々として状況を楽しんでいるのは周りの学生達だった。一番注意するであろう教師もなぜか見て見ぬふりをしている。容姿がどうであれ手腕がよければ会長になれるということか。
ちなみに一般の生徒、主に下級生はこの事実を知らない。二年の俺がなぜ会長について詳しいかというと、それはまた別の話にしよう。『姿を見せない生徒会長』眉唾ものだが目の前にいる男は桜高等学校の七不思議の一つに入っている。
「気になる?」
会長の声に首肯する。気にならないやつはいないだろう。何故そんな変わった格好をしているのか。趣味と言ってしまえばそれまでだが、俺にはそれだけではないような気がしてならない。
「それは」
「それは?」
いつにもなく真面目な顔。真相が聞けるのかと思いきや。
「それは乙女の秘密です」
そう言って会長はスカートをひるがえしくるりとまわって見せた。
「からかわないで下さい」
「君には冗談が通じないんだね」
冗談だったのか。真面目に聞いた俺が馬鹿だった。
「ちなみに正確にはこの姿の時は生徒会長じゃなくて生徒会副会長。名前は『満春(みはる)』ね」
さらにどうでもいい予備知識を与えられた。そんなこと俺の知ったことではない。
憮然とした顔をしていると、
「それじゃあ私は失礼するよ。掃除も終わっただろうしね。わが従妹も姉御もなかなか厄介な兄弟を選んだものだ」
最後にわけのわからない言葉を残し長い髪が遠ざかっていく。鳴海道治。よくわからない先輩だ。
でも心なしか体が軽くなったような気がする。これも生徒会会長の御利益なのか。
「もう少しひくか」
軽くのびをした後、改めて弓を握り直す。
今度はきっといい射(しゃ)ができる。
そんな気がした。