著作・メディア
「ごめんください パートナーがたまたま同姓 『最大のラッキー』」
『ふぇみん』2004年10月15日 第2739号
(掲載を許可していただいた『ふぇみん』編集部に感謝します。)
選択的夫婦別姓の導入や婚外子の相続分差別撤廃など「民法改正」に特化した情報媒体がある。 「mネット通信」だ。坂本洋子さんら、民法改正に取り組む仲間たちと2000年に立ち上げた。
「始めからメディアをつくろうとしたわけではなかった。人々の関心を集め、 運動を盛り上げるために何か目新しいことをしようとした」のが出発点。 数人で手分けして記事を書き、メールでやりとりしながら仕上げて、市民、国会、政府の それぞれの動きをメールとファクスで伝えてきた。「東京にいると、情報も一緒に活動する仲間も多いけど、 地方は違う。そういう人たちに情報を届けたい」。今は全国に約300人の読者がいる。
坂本さんは30歳で移り住んだ埼玉県で不登校児の居場所づくりやゴミ問題、 男女平等教育などの活動をするグループと出会い「mネット」の立ち上げ当時は国会議員の秘書をしていた。
創刊から4年。民法改正はいまだ実現しないが、「民法改正が実現したら男女平等社会になるなんて 思ってないけど、でも民法改正もできない男女平等社会ってなに?ってね。 誰にとっても生きやすい社会がつくれたらいいと思う。 それは女性が生きやすい社会、つまり男女平等の社会じゃないかな」。
坂本さんは熊本県の小さな町に生まれ、15歳のとき、母親の再婚で姓が変わった。 郷里にいるころは女性問題など意識していなかったが、子どものころから常に「自分が女であることと、 女は社会でどう見られるか」に敏感だったという。「母が再婚するまでは女の二人暮し。 “女だけの家”が地域で軽く見られていることをいつも感じていた」
また、小学5年生のころクラスの男の子たちが、女の子の容姿を悪い方からランクづけして 「ドブス・10」を発表した。坂本さんは“輝く”第2位になり、その場で泣きそうなほどのショックを受け 「なんで女だけが外見で順位をつけられるんだろうと悔しかった」。
大学卒業後に就職した熊本県内の町役場では「公務員は男も女も給与表は一緒だが女は出世をしない」 ことにすぐ気づく。
坂本さんを励ますつもりで、「これからは女性だってがんばれば係長にも課長にもなれるよ」 と言った課長に、「えっ、男性は年功序列で、女性は能力制ですか」と問い返したら相手は絶句した。
6年間の役場勤めの最後の1年で戸籍の窓口を担当し、改姓に対する人々の無関心さに驚いた。 「結婚すると男性の姓に変わらなければいけないと思っている人がほとんどだった。 選べることを説明しても、『婿養子ではないから』と言う。 名前を変えることに抵抗がないのがとても不思議でした」
実は、坂本さんは結婚で姓が変わっていない。パートナーがたまたま同姓だったことを、 坂本さんは「最大のラッキー」と表現する。
「名前が変わらないって、こんなに便利なのかと思いますよ。 どちらかが名前を変えたりしなくても『一緒だね』感も味わえるしね。名前が変わらないので、 両親にとっても娘が“ヨメに行った”感じがしないようです」
ところで、坂本さんには、離婚して工場でがむしゃらに働く「お父さんのようなお母さん」 が何となく恥ずかしく、おやつを手作りしたり、たまには和服を着るような「“女らしい”お母さん」 にあこがれた時期があったという。
その母親が、坂本さんが大学生のころ歌集を出した。「およそ外見からは想像もつかない、 与謝野晶子も真っ青な激しい恋の歌を詠んでいた。衝撃を受けたと同時に、母が女として生き、 母親として苦しんできたことを知って見方が変わった」
今はすっかり“ふぇみん”な人として知られている坂本さんだが、 フェミニズムとの出会いは結婚後に熊本を離れてからだった。
放送大学で履修した「ジェンダーの社会学」が、それまで何かおかしいと思っていたことを 論理的に説明してくれた。そして同じころ、老人ホームでおむつたたみのボランティアをしているときに、 女性たちが集う会に誘われ、活動にかかわるようになっていった。
議員秘書時代には、在外被爆者やハンセン病問題などにかかわった。 特に力を注いだ薬害ヤコブ病問題の全面勝利和解を機に、忙しかった仕事を辞めた。 今は「mネット通信」に集中しながら、朝鮮語を勉強するなど充電中。 「来年あたりまた仕事を始めないと」と言う坂本さん。「次の仕事」が楽しみだ。